成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。
2010年04月13日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-46-
朔太郎の内的世界
I
詩の創造、あるいは表現という<現象>の源泉を求めるという作業からすれば、萩原朔太郎という詩人ほど多様な解釈を私達に要求してくるものは他に見あたらない。
朔太郎は、彼自身の生き方が常にそうであったように、詩や詩論・アフォリズム等々の表現においても多くの逆説と矛盾に満ちた顔をのぞかせる。だから、私達は朔太郎という人間のことを私達の意味において捉えようとするとき、単に朔太郎の詩だけを論じるだけでは不充分である。と、同時に現在まで朔太郎についてあまり簡単に烙印づけられている朔太郎の精神の異常性――憂うつ、強迫行為、幻視、幻聴、アル中、同性愛等々――について私達はその本質をもう一度とらえなおしてみる必要があるのである。
朔太郎自身が強調しているように、朔太郎には生理的な感覚から発せられた詩と、厳然と思想的存在として日常生活に根をおろしていたアフォリズム、あるいは評論という二重の表現行為を自己に荷すことによって完成する(生きのびる)自我の構造が存在したことを忘れてはならない。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)
2010年03月04日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-45-
わたしと頭脳は
一つの言葉に違う意味をこめてしゃべりあう
わたしと手足は
一つの行動に複数の意味をこめる
が、たった一人の人間
の克明に内部の風景も描ききれないうちに
流れは新しい流れに規制され
薄くなる光の中で
キャンパスは壮大な赤色墳墓に化してゆく
やはり、ここには急速に<断念>へとむかった者の深い悲しみと、厳しい決意が交錯していることを認めない訳にはいかないのである。
(参考文献)
Thomas Szasz:The Myth of Mental Illness、American psychologist 15 (1960)
R.D.Laing:The Politics of Experience and the Bird of Paradise.Penguin Books(1967)
M.Kiviere(Eds):Love,Hate and Reparation(1937)
K.Keniston:Young Radicals:Notes on Committed Youth,Harcourt.Brace & World Inc.(1968)
K.Keniston:Alienation in American Youth.Address to the Division of Personality and Social Psychology.
American Psychological Association,New York(1966)
E.Kris:Psychoanalytic Eyplorations in Art(1952)
小比木啓吾「現代精神分析 Ⅰ」(誠信書房・1971)
J.P.サルトル「シチュアシオン Ⅰ」(人文書院・1965)
K.Mannheim:Ideology and Utopia,Routledge and Kegan Paul(1936)
T.J.Scheff:Schizophrenia as Ideology.Schizophrenia Bulletin 2(1970)
P.Brown:Radical Psychology.Tavistock(1973)
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界 終)
2010年02月03日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-44-
志向性について、開示性についてサルトルは述べていた。
「在るとは、世界の内に=在ることだと、ハイデッガーは言っている。この《の内に=在る》ことを、運動の意味において理解したまえ。在ることとは、世界のなかに炸裂することであり、世界と意識との虚無から出発し、突如として世界=の内に=意識として=己れを炸裂さすことである。意識が己れを取り戻そうと努め、ついには、ぬくぬくと、扉を閉めたまま、己れ自身と一致しようと努めるやいなや、意識は虚無化される。意識が、それ自体とは別なものについての意識として実在するこの必然性を、フッサールは《志向性》と名付けるのである。」(「フッサールの現象学の根本的理念」)
私は、私自身が、どのように渥美育子の詩にかかわるかという問いかけと同時に、渥美育子自身がどのように生きるかということにも永続的な注視を持ち続けようと考えている。
渥美育子の内的な関与が、人間的なやさしさによって根拠づけられ、あらゆる権威=反権威から遠く隔ったところに完成するとき、私達もまた未来への階段をのぼることができるのである。内的な関与が非状況的なものであるなどと私は考えない。それどころか、意識においてやさしさの根拠のない対暴力(Counter-violence)を私はどんな形においても、認めることができないのである。
渥美育子の経験は、やはり苦渋に満ちている。だが、多くの悲しみや、苦渋のなかで人間はより内的な世界にむかって、<運動>として歩を進めるのである。
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)
2010年01月26日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-43-
(Ⅳ)内部と開示性のユートピア
渥美育子がすぐれて、自己再帰的(reflexive)な意識を持ち続ける詩人であることは、詩集『裏切りの研究Ⅰ』のなかの詩、「裏切りの変位――翻訳論」や、最近の詩「とりかえたもの」(歴程 1975 一月号)を読むときはっきりと認識することができる。
外国語に深くかかわればかかわるほど、自己の内部の何かが傷ついていくことを、恐らく無意識的に感じとることから、こうした意識は芽生えたに違いない。渥美育子には常に、自分の表現に対する自分自身の苛立ちが存在するようにも思える。だから、渥美育子は内的な関与をただ単にまっすぐに投げ降ろすのではない。渥美育子の内的生活は周囲から隔離された静的な場所に根ざすものではあり得ないのだ。
部分品のようにとりかえた、
まわりにそぐわないもの
わたしにそぐわないまわりを、
まわり道は、
異国の風景と砂つぶのついたことばを
とりかえることで、はじまった。
(「とりかえたもの」)
渥美育子の意識の自己再帰性は、無論外的世界の現実的・状況的要請に関係を持っている。しかし、それは現実的世界を如何に生きるかというような設定とは相反するものである。むしろ、私はそれを未来に対する開示性の根拠として受けとりたいのである。
従って、渥美育子の表現は一つの固定された概念として同一化され得ないものと私は考える。例えばK.Mannheimが規定した意味で、渥美育子の表現はまさしく、イデオロギーの側にあるのではなく、ユートピアの側にある。表現がもともと内在的に持ち続けねばならないユートピア(未来への開示性)の体現を、きわめて力強く現実のものとする一つの意志を私はここに見出すことができるのである。表現は永遠にイデオロギーとなってはならないという固い決意と、本来的に表現が志向するユートピアへの希求とが、私たちを渥美育子の詩へとかりたてる。
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)
2009年10月09日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-42-
渥美育子の内的世界は、きわめて抑圧の強い自我の構造によって支えられている。内的な抑圧をどのような位置で、自己の人間的生存と結びつけていくのかというのが私の重要な関心事であるとき、渥美育子もまた同じ場所で苦闘していると考えることができる。抑圧を、過去における権威づけられた人々のための心理学は、芸術的活動のなかで昇華され得るもの(sublimation)として規定した。しかし、現在、私達の表現論は抑圧の自我機能をこの目標の変更(goal substitution)によって解釈することはできない。人間的価値の多様性を基礎とした表現の多様性、解釈すること、されることの多様性は、抑圧の一元的理解からはほど遠いところにあるはずである。
私達の自我は、ますます自己の内部に抑圧を追いやっていく。奥へ奥へ、内部へ内部へと階段をのばしていくだろう。その過程で経験される出来ごとは、外的世界の物理的な基礎構造や、状況そのものの枠内で、それ自体が自己完結的に成り立っている経験である。
かつて、フッサールが倦むことなく主張したように
「あなたはこの樹木を見ている、それはそうだ。だがあなたがそれを見ているのは、それが在るまさにその場所においてだ。」
渥美育子が内的な経験への階段を登りつめる。そのプロセスを成立させているのは、空想生活の願望形成に転移する神経症者類似の心的機能の延長線上に考えるべき契機ではない。従って、フロイトが了解したような芸術家の心的契機である「抑圧の柔軟性」(flexibility of repression)として解釈できる心的現象とはほど遠いものであることを認識しなければならない。
渥美育子の内的契機は、より開かれた志向性をもつものなのである。渥美育子自身は次のように表現し得ている。
11 それは意志?家長のしたで密かに抵抗した
明治の母のメラメラ燃える青い炎?
12 だが 意志だけではやってゆけない
一直線に出ていくなんて――
13 ただちょっとリズムを覚えればいいんだわ
女飛行士のように 宇宙飛行士のように
14 カプセルのなかにいても
(「異次元」)
(Ⅰ詩人論/渥美育子の内的世界つづく…)