成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2017年02月20日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-146
当時も、彼女はほとんど部屋にとじこもりきりであった。調理師として調理場にとじこもりきりであった。調理師として調理場に出る以上は絶対に外に出ようとしない。音楽を聞きながら読書をする。窓の外の世界はながめるためにだけある。
好きな音楽。ハービーマン、MJQ、チック・コリア。
彼女は激しく語る。
「私は、結婚しても職業は持っていたい。私は自分を潔癖な人間だとは思っていません。だから夫の生き方を拘束したりすることはないと思う。例えば夫が浮気をしても許せると思う。私の母はそのような人ではなかった。私の母は許せなかった。父を許せなかったんです。でも、私はちがう。だから、私は思うんです。妻子ある男性なら、妻子から奪ってしまえ、と。」
彼女の内的世界を、実に極限に至るまで抽象化し、分類し、疾患という名のレッテルをはりつけていく。例えば、それが“精神療法”だとしたら。私は精神科医になんかならない方がいいと考えている。
なるほどBellakの言う「ヤマアラシのジレンマ」は概念として、言葉としてはおもしろい。Eriksonの「自我拡散症候群」の概念もErikson自身の規定とモチーフをはなれてみれば、はなはだ便利な言葉である。
だが、私は常に私のものとしてあらゆる人間に触れることしかできはしない。Eriksonの輝かしい業績を頭に描いたうえで、なおかつ私が批判的にならざるを得ないのは、私の内部の厳格ともいえる価値観のためなのだ。そして、それはまぎれもなく私的状況の苦しい産物なのだ。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2017年02月07日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-145
ⅳ
Fさんにむかって、私は詩を書くことの意味をひたすら問い続けた。客観的な意味ではない。いま、ここでなぜ“私”は詩を書こうとするのか。いや、詩という名前はふさわしくない。それならば表現と言ってみようか。
彼女は、ほとんど、私の問いに答えない。長い沈黙。沈黙を破る必要は何もない。だが私は語りだしてしまう。私自身の事柄を、私自身の表現へのかかわりを。
彼女は、ただ黙って笑っている。時々おそろしく楽しそうに笑うのだ。
だが、彼女は少しずつ動きだそうとしていた。彼女にとって何かが変化しはじめたことを私は感じた。
彼女は、日記をつけるのをやめてしまった。日記を書くと、ものすごくしらけるの、と語る。それにかかわって、彼女は多くの読書と、酒を少しづつ飲むことを習慣づけていく。
「J・D・サリンジャーが好き。あの主人公(ライ麦畑)のような感受性を持ち、批判精神を持ち、純粋でありながら、それだから現実から脱落していってしまう人間が好き。」
R・D・レインの『経験の政治学』を読む。(私は当時、レインの著作についていくつかの論考を書き、彼女もそのことは知っていた。)
「意識と、私の人間関係との問題について再確認しました。」
秋山駿の『内部の人間』。
「独断的だと思います。でも楽しかった。私も自分の内部についてこのように書けたらなあ。要するに表現力の問題かしら。」
私との“精神療法”六回目。その頃から、硬直発作はほとんどおこらなくなる。
「詩を書こうとしているんです。でも駄目なのばかり、破ってすてる紙くずばかりが部屋に散らかるんです。」
母からひさしぶりに電話がある。最後に、「私のいることも忘れないでね。」と言われた、と言いながら怒る。「どうして、あんなことを言ったのかしら。」
職場(=彼女の住居としての)での対人関係。
私一人で、11人を相手にして戦っている。最も問題なのは副チーフ。笑いかたもわざとらしいと批判されるんです。
寮で、一年上の人が会社をやめたいと言っているが寮長はそれを絶対に許さない。会社のやり方、考え方はいつも不合理で非近代的である。個人を認めようとはしない。私を大人として扱ってはくれない。組合も私には無関係だし。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2017年01月07日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-144
彼女の母は、その土地の旧家の跡とり娘だった。気立の強い人間であり、やはり自己主張は強かったと彼女は語る。父は養子であり、繊細でどちらかというと神経質な人物で、いつも母の陰にかくされてしまうような存在だった。父は三五才の若さで他界してしまったが、彼女のなかでその存在は実にあざやかに息づいていた。ハイカラなところがあって、よく街まで出かけ映画をみてきた。彼女をつれていくこともしばしばあったが、ヘップバーンが好きだった。また、当時のロカビリーのレコードを多く集めて聞くのを非常に楽しんでいた。だが父は、母とは絶対に映画には行かなかった。
「父は、寂しくてかわいそうな人でした。」と彼女はいつも語るのだった。
彼女の上には姉が一人いる。女二人の姉妹である。姉は社交的でしっかり者だとの風評がある。大学卒。
彼女は、母のめんどうは(老後)姉がみるという条件で、自分は遺産の相続権を放棄すると断言して、上京してきた。上京して四年ほとんど故郷に帰らない。
「故郷に帰りたくないのは、家に帰るのが嫌だからです。母の顔をみるのが嫌だから。」
私との治療関係が成立して五~六週目頃から、彼女の内部世界と彼女の人間そのものとに、はっきりした変化があらわれてきた。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2016年11月10日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-143
彼女は地方の高校を卒業するとすぐ、上京し現在の職場に務めた。彼女は故郷があまり好きになれなかった。小さな町での人間関係が漠然と好きでなかったと語ったが、それだけではなく、彼女はあまり母を好きになれなかったのである。
大手銀行の寮に住み込んだ調理師としての仕事は、一五〇人位の男子寮のなかで、最も目立たぬ、地味な仕事場であった。
そこでは自分の務める仕事場と自分の部屋とが同じ屋根の下にあり、プライベートな時間との区別も判然としていなかった。
仕事に対する不満を彼女は用心深く語るのをさけていたが、彼女の置かれた設定の不自然さは明らかであった。
しかし、彼女には職場を変えるだけの積極性も勇気もなかった。新しい環境への適応性もないということを最もよく知っていたのは彼女自身であった。
彼女は、仕事の時間以外は、ほとんど一日中部屋にとじこもり、ボンヤリ(まさにボンヤリ以外のなにものでもなく)時間を過していた。“出口なし”の状態のまま、彼女の激しい欲求のみがつのっていく。
彼女は毎日のように机にむかって、詩を書くか(幼児的な詩を!)、日記をつけていた。日記はかなり激しい調子で自己主張を展開しているもののようであった。
職場のなかでも、寮生活のなかにあっても彼女は常に問題児であった。彼女自身、意識的に規則とか常識に対して反抗するところもあり、職場でも公然と無視されることがたびたびあり、管理面での問題がもちあがると、すぐに彼女が呼びだされて説教されるという具合いだった。彼女には、管理に対抗する思想性はほとんど育ってはいず、彼女をささえていたのは、強固な自我意識と、彼女が自分自身を規定した生き方であった。
このような寮の管理や人間関係に反抗して食事は全然とらないでいる、などという日が当時も続いていた。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2016年10月09日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-142
私が、“治療”を行いはじめた時点で、硬直発作は週二回ほど、一回につき六時間程の持続をしていた。そして、前の主治医より薬の処方がでていたにもかかわらず、彼女は薬で左右される状態=疾患ではないという直感から、まったく処方薬に手をつけていなかった。
私は、“精神療法”を行う前に、かならずそうするように、私自身のための“治療”行為のためのマニフェストを頭に描いていた。
ⅰ“治療”とは何かという主題を、まず治療者の側から問いつめていくこと。
ⅱ医者患者という図式を出来る限り打ち破るために、医者自身の人間的弱さ、悲しさ、日常の問題をまず主題とすること。
ⅲ患者の抱きかかえた状況の設定は、あくまでも状況の問題としてのみ触れ、対内部知識としての役割は判断中止する。
私が“治療”をはじめた時、彼女はそれまでとはまったく逆に詩についての話は、ほとんどしなくなっていた。詩の話は意識的にさけているようであった。私には、もともと彼女が詩の世界と呼んでいたものの内実が、それほど強固なものではなく、単なる代名詞のようなものに思われた。彼女は。生き方に於いても、感受性としても現代のいわゆる“文学少女”ではなかった。
彼女が「死にたい」とか「生きていても仕方がない。」と言うとき、それは単に漠然とした悲観論でも、敏感な感受性のためでもなく、現実に職場でおきた一つ一つの事柄、そして彼女の日常総体の身動き出来ない状況に対する反応であるようだった。
彼女は、知能そのものは優秀でありながら性格傾向はきわめて幼児的であり、常に依存の対象を求めていた。しかし、その依存の対象は彼女にとって大きすぎるものであってはならないし、彼女と直接に競争しあうものであってはならなかった。
その頃の詩には
子供の頃のように
私の場所が欲しい
とか
今の生活から抜け出たい
とか
孤独なのが好き
などといった自己像が語られる。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)