成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2016年11月10日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-143
彼女は地方の高校を卒業するとすぐ、上京し現在の職場に務めた。彼女は故郷があまり好きになれなかった。小さな町での人間関係が漠然と好きでなかったと語ったが、それだけではなく、彼女はあまり母を好きになれなかったのである。
大手銀行の寮に住み込んだ調理師としての仕事は、一五〇人位の男子寮のなかで、最も目立たぬ、地味な仕事場であった。
そこでは自分の務める仕事場と自分の部屋とが同じ屋根の下にあり、プライベートな時間との区別も判然としていなかった。
仕事に対する不満を彼女は用心深く語るのをさけていたが、彼女の置かれた設定の不自然さは明らかであった。
しかし、彼女には職場を変えるだけの積極性も勇気もなかった。新しい環境への適応性もないということを最もよく知っていたのは彼女自身であった。
彼女は、仕事の時間以外は、ほとんど一日中部屋にとじこもり、ボンヤリ(まさにボンヤリ以外のなにものでもなく)時間を過していた。“出口なし”の状態のまま、彼女の激しい欲求のみがつのっていく。
彼女は毎日のように机にむかって、詩を書くか(幼児的な詩を!)、日記をつけていた。日記はかなり激しい調子で自己主張を展開しているもののようであった。
職場のなかでも、寮生活のなかにあっても彼女は常に問題児であった。彼女自身、意識的に規則とか常識に対して反抗するところもあり、職場でも公然と無視されることがたびたびあり、管理面での問題がもちあがると、すぐに彼女が呼びだされて説教されるという具合いだった。彼女には、管理に対抗する思想性はほとんど育ってはいず、彼女をささえていたのは、強固な自我意識と、彼女が自分自身を規定した生き方であった。
このような寮の管理や人間関係に反抗して食事は全然とらないでいる、などという日が当時も続いていた。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2016年10月09日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-142
私が、“治療”を行いはじめた時点で、硬直発作は週二回ほど、一回につき六時間程の持続をしていた。そして、前の主治医より薬の処方がでていたにもかかわらず、彼女は薬で左右される状態=疾患ではないという直感から、まったく処方薬に手をつけていなかった。
私は、“精神療法”を行う前に、かならずそうするように、私自身のための“治療”行為のためのマニフェストを頭に描いていた。
ⅰ“治療”とは何かという主題を、まず治療者の側から問いつめていくこと。
ⅱ医者患者という図式を出来る限り打ち破るために、医者自身の人間的弱さ、悲しさ、日常の問題をまず主題とすること。
ⅲ患者の抱きかかえた状況の設定は、あくまでも状況の問題としてのみ触れ、対内部知識としての役割は判断中止する。
私が“治療”をはじめた時、彼女はそれまでとはまったく逆に詩についての話は、ほとんどしなくなっていた。詩の話は意識的にさけているようであった。私には、もともと彼女が詩の世界と呼んでいたものの内実が、それほど強固なものではなく、単なる代名詞のようなものに思われた。彼女は。生き方に於いても、感受性としても現代のいわゆる“文学少女”ではなかった。
彼女が「死にたい」とか「生きていても仕方がない。」と言うとき、それは単に漠然とした悲観論でも、敏感な感受性のためでもなく、現実に職場でおきた一つ一つの事柄、そして彼女の日常総体の身動き出来ない状況に対する反応であるようだった。
彼女は、知能そのものは優秀でありながら性格傾向はきわめて幼児的であり、常に依存の対象を求めていた。しかし、その依存の対象は彼女にとって大きすぎるものであってはならないし、彼女と直接に競争しあうものであってはならなかった。
その頃の詩には
子供の頃のように
私の場所が欲しい
とか
今の生活から抜け出たい
とか
孤独なのが好き
などといった自己像が語られる。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2016年09月22日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-141
彼女の主治医は私の同僚の女医であった。女医であるということ、それもかなり現代的洗練を持った女性であるということが、地方から自己の夢をつなぐ意味で上京した彼女にとって意味のないことではなかったはずである。彼女と主治医との治療関係は、成功していなかったのも、恐らくは、その二つの文化的状況が対立し緊張し、相互を結びつける“言語によらない言語”が生まれる以前に彼女自身の反応が、症状として増悪していってしまったからであった。
退院後も、彼女の発作は一日おきといったペースで出現していた。その間、彼女は“詩が書けない。頭がモヤモヤして……。”とか或いは、“詩の事を話したり詩に関連していないと前のめりなってしまう。”等々を訴え、私と話をすることを強く望んでいた。そのために、遂に私達(私と主治医)は検討のうえ主治医の交代を決意することにし、以後は私が週一度、一時間あまりの“精神療法”を彼女に行うことになったのである。
主治医交代直前の状態。
(主治医はこのままで、詩etcの話相手としてDr墨岡ということは)
“そうすると主治医が二人で方針が違うと思うし”
(そういう意味ではなくて)
(総括)
① 退院した当時、職場になれるまで不安定→病院主治医と話した方が安定→職場での悩みも落着いてペースができてくると、やはり詩をとり戻したい、元の自分の方が安定しているということで…………詩の世界に逃避したい。
② ヤマアラシ的人間関係(一人では寂しくくっつきたい、くっつきすぎると自分を守るために又、離れざるを得ないというような……)ヤマアラシのジレンマ。
③ 自ら行動し、ぶつかりという現実生活の不得て。
④ Dr墨岡、(詩にたずさわる人間で、身近に見出せる唯一の人間。父親的なもの、その他直感的なもの。)
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2016年08月22日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-140
入院してからの彼女の主治医は、私ではなかった。私が彼女の存在を知ったのは、当直の夜、廻診時であった。当時、彼女は大学ノートに毎日の日記と、おびただしい詩を記していた。彼女自身の心的、内的葛藤を詩に託して、“詩が書けない状態が一番つらい”と訴えていた時期でもあった。私との二、三の会話、そして主治医を通しての話から私自身が詩を書くという行為を続けていることを知り、私に少しずつの詩の話をしてくれるようになった。私も、不規則な形ながら治療関係を逸脱しない場面での詩の話を中心に彼女と対話をくり返すことになっていた。
彼女は48年9月10日に入院、12月20日に退院した。退院時の状態。
Conversion Hysterieの疑いで入院。他の器質的疾患も一応考慮に入れて種々検索の結果、器質的疾患は否定。生活史、心理テスト、面接を重ねた結果、本人の性格の未熟性、情緒的緊張が種々の場面、特に人間関係に於いて高く、その辺が身体の硬直につながっていくという事がわかり、本人もそれを自覚し、発作は少なくなった。一時はしばらく全く消失した。しかし、退院が具体的となり職場に戻る事が近づくにつれて、不安が増強し、発作が続けておきた。それについてよく納得してもらい。一応12月20日に退院し徐々に職場に戻っていくように本人も同意した。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2016年08月07日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-139
だから、私はまず、何よりも私自身の生き方のために新しい表現論、新しい精神医学を考え出していかなければならないことを思っていた。私自身の生き方に触れて、既存の体系のどれを抽出してみても、私には人間対人間の(断じて対人関係論などというものではなく)心的現象を通してのかかわりあい方に満足できるものはなかったと言ってよい。
Fさんのカルテに記載された疾患名。
“Conversion Hysterie.”
彼女がはじめて私の勤務していた大学病院を受診したとき。
主訴。手足の硬直しびれをともなう発作。
経過。48年8月13日、友人が自分の部屋に泊りに来た時に急に気分が悪くなり、手足硬直、呼吸が荒くなり救急車でM病院に入院した。翌日には軽快退院し、郷里の高田市に帰り一週間休養した。地元の病院にて精査を受け、脳波異常と言われた。上京後、再び同様の発作があり、再びM病院に入院した。しかし硬直発作は改善されず、物を考えたり、トイレでいきんだりすると硬直発作を起す。M病院では、“過呼吸症候群”、“テタニー”などと考えていたが、現在では心理的なものを疑っている。発作時には、袋をかぶったり、フトンにもぐったりする、当病院にて精査のために来院し、入院となった。入院当時も朝から両下肢は硬直し、歩けない状態であった。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)