成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2016年06月13日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-136
例えば、エリクソンがあまりにも有名な彼の“自我拡散症候群”(Identity diffusion syndrom)の叙述のなかで人間存在の内部的在り様と、外部的在り様とを対応させ、この二者の統合を可能にしたと確信したとき、エリクソン自身の目に映っていたのは個人の具体的生き方に関する現象ではなく、客観的行為を<おれ>と<おまえ>という対立した視点に分解してしまったうえで<おまえ>を<おれ>の中に強引に組み入れてしまおうとする残酷な論理の構造であったことを忘れないでいたい。論理的にいかに明確であっても、それがすなわち人間の存在へと結びつかないことは誰でもが知っている。知っていながら何故論理を求めるのか。それはあたかも、この“現実”が理論を先取りしてしまう現代という時代の不安を象徴しているかのようである。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2016年06月05日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-135
「“狂気の復権”を叫びうるのは、そうすることのできる健康者にすぎないのだ。病院の中に隔離収容された患者たちは、いくら病院の外で“狂気の復権”が叫ばれようが、復権の恩恵には浴しない。狂人は決して復権してもらえない。復権を許さないものがあり、それはとりもなおさず、“復権”を叫ぶ日常生活者なのである。もはや“狂気”弄ぶのは患者ではなくなった。“狂気”はわれわれの持ち物になってしまった感さえする。“狂気”すらも、われわれは患者から奪いとってしまった、といえるのではないか。いかなる意味においても“狂気”を言葉にするとき、それは健康者のものになっている」(松本雅彦『精神科医療における治療の構造』)
私達が、表現の現象学という名前で呼ぼうとしている一つの精神の現象学は、だから常に全人間的なものでなければならない。意識の内部の問題、状況にかかわる地点で(存在と認識とが直列するところで)はじめて、私達の本当の表現は誕生するのだ。
人間的表現というまさしく曖昧そのもののような言葉でしか私がこのような現象を語れないのは、既にさまざまな名辞や形容語句が私達から悪しきものによって奪いとられているからであるけれども、単にそれだけではなく、この現象の置かれた場所が今までの主観と客観とか、内部と外部とか、上部構造と下部構造とか、幻想と現実とかの二元論的在り様よりもさらに一歩を進めたところに存在しなければならないことの一つの決意のあらわれでもあるのである。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2016年05月12日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-134
彼はまた、この論考の最後の部分で、激しく、しかも悲哀に満ちて叫ばずにはいられない。
「<治療>や<運動>を語って、“人間”を見ようとしない者こそ死んでしまえ!ということになる」
「想いはどこまでも屈折する」と渡辺良が書くとき、彼の悲しさ、むなしさは痛いほど私にも伝ってくる。私達は現実に何をすればいいのか。一体どこから如何にはじめるべきなのだろうか。現実に対する客観的鳥瞰図がなくても私達はやらなくてはならない。私達はいかなる意味においても効果など期待しないでやらなくてはならない、と私は書き続けてきた。だが、それは単に決意の問題にすぎないのだろうか。私はいかにも長い間一つの部屋に閉じこもり、あるいはまた一つの状況の内に身を置いてきた。だが、そのいわば状況に対する不定形な場所で私自身が表現行為を続けていくことに何の意味があるのだろうか。
一歩、一歩、そして、一人、一人の人間にむかって私達は私達自身の生き方について語り、説明し、“納得”してもらうべきなのだろうか。だが、もしそうだとすれば私達は、自己の生涯の内に一体どれだけの“共に生きる”人間が見出せるだろう。あらゆるところで効果を期待しない私達の生き方は、自己を自己のまま完遂していけばそれですむのだろうか。そして、その曲折した遠い道程の間にますます完璧な収奪の論理のもとで現実の問題としてかかわりあってくる一つの体制に対して、私達はなおかつ絨黙を続けるのだろうか。
風俗的なレベルでいかに自由が謳歌され、いかに個人的に人間性が吹聴されたとしても、それは既に巨大な権力の前に弄ばれている一羽の小鳥にすぎない。それは私達のあらゆる表現の問題にかかわっている現実である。映画表現もTVも、例外ではあり得ない。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2016年04月09日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-133
人間の意識の内部について触れるとき、果して我々は本当に学問的体系を必要としているのだろうか。既存の精神病理学、精神分析学、精神現象学等々を採用することによって、私達は人間的事象の何を知ろうとしているのだろうか。
氾濫するフロイト、流通の中に満ちあふれんばかりの異常心理学。そして、そのまさに対極には絶対的ともいえる権力関係につら抜かれた学問的精神医学の構造が常にそびえていた。
その狭間にあって、真に内部的存在の問題を状況の内に投射し得た孤独な人間は一体どこに流されていこうとするのだろうか。
既に<フロイト>も、<エリクソン>も、<レイン>も、流通の場では権力でしかないのである。
畏友、渡辺良は「髪の花」に触れながら次のように述べている。
「<精神医学>がまきちらしてきた<治療>の幻想の中で、狂気を個人に還元していく視点は誤りであり、<病者>を<正常>な社会に適応させていくことは治療的暴力である。だがその<適応>でさえも、あるいはその<適応>こそ、一日千秋の想いで、待ちわびている<患者>がどれだけいるのかを考える時、僕の想いはどこまでも屈折する。彼らの視点と僕らの視点が異なる様に、彼らの苦しみと僕らの苦しみを混同することはできない。僕らの様々な思弁的な目論見のはるかに及ばぬ深部で、病者の苦しみは“ただ単純に生きること”への謙虚さに貫かれて、それ故呻き、軋んでいるのではないだろうか」(『髪の花と我々』さいか、あとり―1月号)
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2016年03月13日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-132
ii
<私が書く>という現象は一体どんな意味を持ち得るのか。<あなたが詩を書く>のは何故なのか。
背後からせきたてる陰の声、状況のなかでついに未完のまま拡散していってしまう厖大な意志に支えられて、一個人の現象が表現として定着していくのだろうか。
それにしても、人間の表現行為について、また人間の精神現象について、何故こんなにもおびただしい書物が書かれ、多くの体系が企図されようとするのだろうか。
そこに病める人間がいるから、などという解答を私は絶対に認めることはできない。現在の表現行為論も、精神現象学も決定的に正常者の側に収奪されており、さらにはより完璧な比喩のようにいずれは巨大な権力の懐におさまってしまう性質のものである限り、私はそれらの解釈を私のものとして肯定することは出来ないのである。
何よりも、なお一層人間的な生き方を中心課題としながら、学問とは一体何かということをもっともっと単純な地平に持ち込んで問いなおすべきなのだ。そして、そのためにまず私達が日常のなかで行っている諸行為の意味性をたずねあてていかなければならない。職業とは何か。生活とは何か。怒り、悲しみ、快楽、絶望、不安、こうした心理的機制さえも私達は再び問いなおす必要にせまられている。
「男達は家にいる女達の為に働いている。自分の為の働いてくれる者を持っているとは何と凄いことだろうと思う。その何でもない世界、それが私達は欲しいのです。
たとえ夕方には病院に戻らねばならないとしても、一ときでも人間らしい生活を味わってみたいと思います」(小林美代子『髪の花』)
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)