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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2016年07月10日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-138



私はいま、一枚のレコードを聞きながら、さまざまに想いを馳せている。深夜。

レコードは、チック・コリアの「リターン・トウ・フォーエバー」である。

このレコードを私は一人の女性から贈られた。Fさん、21才。ある大手の銀行に勤める調理師である。

私と彼女との出会いについては後述するが、私は三ヶ月以上の間、一人の精神科医として個人的に“精神療法”という形で彼女と接してきた。彼女の内部の世界、心のほんの些細な一片と私は対話してきた。

私にとって“精神療法”とは一体何かという問いかけと、その問いかけを行おうとする私の立場とが、まさに粉々に崩れかけてしまっている現在、学問とか医療とかを包含してなおかつ私と彼女との結びつきの意味を考えざるを得ないのだ。

私は精神医学という医学の一分野のなかでは、その疾患の如何によらず、治療という概念を第一義的にかかげたくないという逆説を主張する者の一人である。疾患対治療者という限定された図式の内に半ば権力的に安置されてしまう構図はもちろん、個人の内的世界を抽象して取り扱うことにも私は批判的である。

再び世代論に及ぶ訳ではないけれども、私達の世代が経てきた状況の網のなかで、私はやはり私自身の生き方を厳しく限定せざるを得ないことを感じている。たとえ、表層的にどれほど日常的勤勉に、権力的立場に処遇していても、現在は“冬の季節”であるという事実がまず前提として扱われなければならないのだ。

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

2016年06月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-137

私達はもう一度、個々人の<人間>にもどらなければならない。そこからやりはじめなければならない。詩が単に、とぎすまされた感性の所産にとどまらず、美しい虚像であることとは対極の困難に生きることのための状況との緊張関係として存在する日のことを私は想わないではいられない。だが、その時私達はただいたずらに人間の内部意識について語ってはならないはずなのだ。“狂気”そのものがこんなにも簡単に文字として定着していってしまう時代を作り出したのは一体誰なのか。自分自身の意識のなかでおこなわれていることにあまりに無関心でありながら、客観的な狂気の連想へと自己の存在的歪みを何のためらいもなく重ねてしまう総ての人間には、もはや病者の持つ根源的な正直さもないのである。

「今日われわれはヨーロッパの停滞に立会っている。逃れよう、同志たちよ、この停止してしまった動きを――そこでは弁証法が少しずつ、均衡の論理に変貌した――。人間の問題を再びとりあげよう。脳髄の現実の問題、全人類の脳髄全体の問題を、再びとりあげよう――その結合を増し、その網の目を多様にし、その伝える言葉を再び人間化することが必要だ。

さあ、同胞よ、われわれは、後衛のゲームでたわむれているわけにはゆかない。あまりに多くの仕事がありすぎるからだ。ヨーロッパは、ヨーロッパのなすべきことを行った。それも結局のところ、なかなかよくやってのけた。ヨーロッパを告発することはもうやめにしよう。そしてヨーロッパにはっきりと、いつまでもそんなに騒ぎたてるべきではないことを告げようではないか」(フランツ・ファノン)

いまもなおファノンの表現が私達に感動的であるのは何故なのか。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

2016年06月13日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-136

例えば、エリクソンがあまりにも有名な彼の“自我拡散症候群”(Identity diffusion syndrom)の叙述のなかで人間存在の内部的在り様と、外部的在り様とを対応させ、この二者の統合を可能にしたと確信したとき、エリクソン自身の目に映っていたのは個人の具体的生き方に関する現象ではなく、客観的行為を<おれ>と<おまえ>という対立した視点に分解してしまったうえで<おまえ>を<おれ>の中に強引に組み入れてしまおうとする残酷な論理の構造であったことを忘れないでいたい。論理的にいかに明確であっても、それがすなわち人間の存在へと結びつかないことは誰でもが知っている。知っていながら何故論理を求めるのか。それはあたかも、この“現実”が理論を先取りしてしまう現代という時代の不安を象徴しているかのようである。

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

2016年06月05日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-135

「“狂気の復権”を叫びうるのは、そうすることのできる健康者にすぎないのだ。病院の中に隔離収容された患者たちは、いくら病院の外で“狂気の復権”が叫ばれようが、復権の恩恵には浴しない。狂人は決して復権してもらえない。復権を許さないものがあり、それはとりもなおさず、“復権”を叫ぶ日常生活者なのである。もはや“狂気”弄ぶのは患者ではなくなった。“狂気”はわれわれの持ち物になってしまった感さえする。“狂気”すらも、われわれは患者から奪いとってしまった、といえるのではないか。いかなる意味においても“狂気”を言葉にするとき、それは健康者のものになっている」(松本雅彦『精神科医療における治療の構造』)

私達が、表現の現象学という名前で呼ぼうとしている一つの精神の現象学は、だから常に全人間的なものでなければならない。意識の内部の問題、状況にかかわる地点で(存在と認識とが直列するところで)はじめて、私達の本当の表現は誕生するのだ。

人間的表現というまさしく曖昧そのもののような言葉でしか私がこのような現象を語れないのは、既にさまざまな名辞や形容語句が私達から悪しきものによって奪いとられているからであるけれども、単にそれだけではなく、この現象の置かれた場所が今までの主観と客観とか、内部と外部とか、上部構造と下部構造とか、幻想と現実とかの二元論的在り様よりもさらに一歩を進めたところに存在しなければならないことの一つの決意のあらわれでもあるのである。

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

2016年05月12日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-134

彼はまた、この論考の最後の部分で、激しく、しかも悲哀に満ちて叫ばずにはいられない。

「<治療>や<運動>を語って、“人間”を見ようとしない者こそ死んでしまえ!ということになる」

「想いはどこまでも屈折する」と渡辺良が書くとき、彼の悲しさ、むなしさは痛いほど私にも伝ってくる。私達は現実に何をすればいいのか。一体どこから如何にはじめるべきなのだろうか。現実に対する客観的鳥瞰図がなくても私達はやらなくてはならない。私達はいかなる意味においても効果など期待しないでやらなくてはならない、と私は書き続けてきた。だが、それは単に決意の問題にすぎないのだろうか。私はいかにも長い間一つの部屋に閉じこもり、あるいはまた一つの状況の内に身を置いてきた。だが、そのいわば状況に対する不定形な場所で私自身が表現行為を続けていくことに何の意味があるのだろうか。

一歩、一歩、そして、一人、一人の人間にむかって私達は私達自身の生き方について語り、説明し、“納得”してもらうべきなのだろうか。だが、もしそうだとすれば私達は、自己の生涯の内に一体どれだけの“共に生きる”人間が見出せるだろう。あらゆるところで効果を期待しない私達の生き方は、自己を自己のまま完遂していけばそれですむのだろうか。そして、その曲折した遠い道程の間にますます完璧な収奪の論理のもとで現実の問題としてかかわりあってくる一つの体制に対して、私達はなおかつ絨黙を続けるのだろうか。

風俗的なレベルでいかに自由が謳歌され、いかに個人的に人間性が吹聴されたとしても、それは既に巨大な権力の前に弄ばれている一羽の小鳥にすぎない。それは私達のあらゆる表現の問題にかかわっている現実である。映画表現もTVも、例外ではあり得ない。

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

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