成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2012年12月06日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-88-
また、次のように述べることも出来る、内的な抑圧=抑圧的<経験>と、外的な抑圧との質的な転態を一個人の意識の側から構築させているものが世界の共同主観たる表現であり、表現行為である。そして、新しい非権力的な人間関係を志向することによって表現は真に豊かな果実を私達に提供してくれるだろう。内的な関与を状況的関与へと変遷させていく方法が、ある萌芽的な状態でそこには存在するはずなのである。
だから、まず私達にとって心ひかれる表現は内的経験の現象学的な記述としてあらわれるということは不思議なことではない。(例えば有名な反精神医学の詩的表現といわれるMary Barnesの“Flection/Reflection”を見よ。)
そして、内的経験の現象学的な記述はハイデッガー以来の現象学者がくり返し述べているように、<詩>と不可分なものではあり得ないのである。
「言葉の支配は、物を物たらしめる物在作用として閃光を放つ。言葉は集合するもの、即ち現前するものを初めてその現在へともたらすものとして輝き始める。言葉のこのように考えられた支配、かく語ることをいう最も古い言葉はロゴスである。示しつつ、存在するものをその『在る』の中へ現われしめるところの、古き言葉diesageである。ロゴスと同じ言葉はしかし語るをさす言葉として、同時に在るをいう言葉でもある。すなわち現前するものの現在をいう言葉でもある。古き言葉と存在、言葉と物とは、隠蔽された殆ど考察されていずまた考究しつくしえない仕方に於いて、相互に所属し合っているのである。」(ハイデッガー「詩と言葉」)
私達はここに、詩的表現をとおしてプロセス(過程)からプラクシス(実践)へと変転する人間的開示性を手にすることができるのである。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)
2012年11月25日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-87-
私達は、表現をこれらの外的な抑圧からも解放しなければならないはずである。
このとき、まず私達に可能なのは未来にむかって自己を開示する新しい人間関係の創造であるように思われる。諸制度のすべてが、マンハイムが規定したように、現実的規範としてのイデオロギーとして機能しているとき、内的な現象はイデオロギーを乗り越えるべく準備されなければならない。この準備状態は新しい人間関係によって現実に形づくられるのであろうことを私は想像する。
ところで、福岡安則も指摘するように、サルトルが『弁証法的理性批判に』において、無力さを刻印づけられた「集合態」のさなかから「蒙らされる全体性」という契機によって噴出した「自由の突然の復活」としての「溶融集団」が、「誓約集団」へと転態し、そしてさらに「組織集団」へ、ついには「集合態」と同じ集列的多様性の規格において構成される「制度集団」へと再転落していく過程を緻密な論理によって明らかにしていることは周知のことである。
だが、私達の内的な要請はこのようなサルトル的モデルとは異なった共同性を志向しなければならないことを前提としている。現実に経済的・政治的存在としてある外的な抑圧のただ中で新しい人間の関係、あるいは<運動>を創出することの困難さは、恐らくどのようにも形容できないものであるはずである。しかし、だからといって新しい<非権力の状況>に基づく人間の関係性を遠い遠い夢想の世界に措定することはむしろ有害である。私達が表現行為というものを世界定位に対してマニフェストするとき、創造力とはユートピアを現実的世界へとひきよせる現実的な力であると断言することができるのだ。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)
2012年11月17日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-86-
(ii) 外的な抑圧
福岡安則は「内化の企て―――新しい集団性の創出」のなかで次のように述べている。
「<闘争>とは、主として変革対象を変革主体の外側に措定し、共通の課題を達成しようとする闘いの位相である。<運動>とは、主として変革対象を変革主体の内側に措定し、自己のあり方・生き方、人と人との関係性のあり方、そしてさらには望ましい未来社会のあり方を、みずからにまた相互に問うていく闘いの位相であり、主体がおのれの社会的存在の意味関連を自己対象化することによってはじめて成立しうる。」
私達をとりまく状況を、<闘争>と<運動>という二重の位相において把握することは顕著な志向性として存在している。
私達は、こうした志向性を踏まえて表現をめぐる状況的抑圧の問題に一歩突き進まなければならない。それはただ単に言語論とか、詩の流通過程の問題というよりも状況総体の問題として考えるべきものである。
個人の表現行為は、社会経済構造の階級性と密接に絡みあって存在している。だから、社会的背景を含まない表現行為は皆無といってよいであろう。だからこそ、あらゆる意味で多様性を持つ人間の表現行為は、個々にとり出された、或る一つの表現のみを抽象化して、それをまさに<表現>として定着させることは不可能なのである。
だが、私達が直面している社会管理的な諸制度の桎梏のなかで現実にこうした表現の問題が厳しく問われようとしている。例えばそれは思想と表現に関わった刑事裁判の席上で。また、人間の内的経験(現象)を人間的表現の体現と考えるとき、“精神病”に対する予防的な精神衛生法の問題として。<行為>そのものを裁くということは相手が人間である以上、それは個人の社会的背景を裁くということを抜きにしては考えられないのである。法的論理根拠である刑法学者の言うところの「構成要件」というのは、単に暴力行為とか、不法行為とかの有無を条件としているのではないことを、実際上も理念上でも、私達はもう一度確認しておかなければならない。
それは、多くの人間的表現の規範によって解釈すべき内的な経験を、精神病というレッテル(labeling)により尊厳として権利としても非人間的な場所に追い込んでいる精神衛生法と“焼印”(stigma)としての精神医療の現実にもあてはまることである。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)
2012年11月04日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-85-
私達の時代の詩は、苦渋の色に濃く染めあげられている。だから、私達は私達の表現であるところの詩をカタルシスとか快適なものとして手にすることは出来ないでいる。
状況のなかで、ついに言葉を見失ってしまったもの、言葉を発することを<断念>したもののみが、再び詩を我物とすることができるのだと私は思う。詩を表現することによってはじめて生きのびることが可能となる自我の構造こそ、詩人の内的な現象のすべてであるのかも知れないのである。
社会経済的な諸制度が内的な抑圧に対してまぎれもなく巨大な影をおとしているという事実、そして人間の表現をめぐる開示性(=実存的自由)が、これら諸制度をまきこむ<運動>として認識されなければならないとき、表現者としての詩人の位置も定まるのである。イタリアの精神科医Franco Basagliaが述べるように、現代では内的な現象を理解しようとするとき「愛は不充分」(Love is not enough)であり、表現者は常に疎外と抑圧への鋭い認識を持ち続けなければならない。表現とは内的な現象としても“political act”として規定されなければならない。
「暴力とは、抑圧され力を持ち得ないものに対してナイフを持つことができる特権そのもののことである。」
(Franco Basaglia)
人間の内的世界が永遠に広がる創造力の源泉であるとき、個人の表現は、人間的な愛とやさしさに根拠づけられた、対暴力(Counter-violence)あるいは対組織(Counter-organization)の中心的課題とならなければならない。そして私達は表現によって世界の内に定位するのである。このとき、まさしくプロセス(過程)と考えられていたものがプラクシス(実践)として現前しはじめるのであり、受動的であったものが逆に行為者となるのである。
このようにして形成される詩人であることは、意識として反権威・反知識的存在であり続けること、あらゆる形の疎外と抑圧に鋭敏に反応する豊かな感受性を必要としているのだと思わずにはいられない。詩人であることとは、まさに内的な<運動>そのものである。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)
2012年10月26日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-84-
ところで、内的経験のなかで、何故詩を書くか、何故表現をするのかという問題は果してどのように位置づけられるものなのだろうか。
表現を成立させている契機には自我の抑圧の構造が密接に関係していることを認めない訳にはいかない。心的機能における抑圧の自我構造によって人間の表現の問題をある程度基礎づけようという作業は興味のあるものといえるだろう。内的な抑圧を如何に人間の生存の問題へと結びつけていくのかということを明らかにすることが私の課題であるとき、個々の詩人の内的抑圧の構造を知覚していくことは重要である。
抑圧を、過去における既成の、権威づけられた人々のための心理学は、芸術的活動(表現)のなかで昇華(Sub-limation)され得るものとして規定した。しかし、私達の表現論は抑圧の自我機能をこの種の目標の変更(goalsubstitation)として解釈することはできないと考えている。人間的諸価値の多様性を基礎とした表現の多様性、解釈すること=されることの多様性は、抑圧の一元的理解からははるか遠いところに位置するものである。
詩人の内的経験への関与の過程は、空想生活の願望形成に転移する神経症者類似の心的機能として考えるべき契機ではなく、従ってフロイトが了解したような芸術家の心的契機であるところの、「抑圧の柔軟性」(flexibility of repression)として認識し得るものであってはならないと私は考える。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)