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墨岡通信

成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。

2012年11月17日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-86-

(ii) 外的な抑圧

福岡安則は「内化の企て―――新しい集団性の創出」のなかで次のように述べている。
 「<闘争>とは、主として変革対象を変革主体の外側に措定し、共通の課題を達成しようとする闘いの位相である。<運動>とは、主として変革対象を変革主体の内側に措定し、自己のあり方・生き方、人と人との関係性のあり方、そしてさらには望ましい未来社会のあり方を、みずからにまた相互に問うていく闘いの位相であり、主体がおのれの社会的存在の意味関連を自己対象化することによってはじめて成立しうる。」
私達をとりまく状況を、<闘争>と<運動>という二重の位相において把握することは顕著な志向性として存在している。
私達は、こうした志向性を踏まえて表現をめぐる状況的抑圧の問題に一歩突き進まなければならない。それはただ単に言語論とか、詩の流通過程の問題というよりも状況総体の問題として考えるべきものである。
個人の表現行為は、社会経済構造の階級性と密接に絡みあって存在している。だから、社会的背景を含まない表現行為は皆無といってよいであろう。だからこそ、あらゆる意味で多様性を持つ人間の表現行為は、個々にとり出された、或る一つの表現のみを抽象化して、それをまさに<表現>として定着させることは不可能なのである。
だが、私達が直面している社会管理的な諸制度の桎梏のなかで現実にこうした表現の問題が厳しく問われようとしている。例えばそれは思想と表現に関わった刑事裁判の席上で。また、人間の内的経験(現象)を人間的表現の体現と考えるとき、“精神病”に対する予防的な精神衛生法の問題として。<行為>そのものを裁くということは相手が人間である以上、それは個人の社会的背景を裁くということを抜きにしては考えられないのである。法的論理根拠である刑法学者の言うところの「構成要件」というのは、単に暴力行為とか、不法行為とかの有無を条件としているのではないことを、実際上も理念上でも、私達はもう一度確認しておかなければならない。
それは、多くの人間的表現の規範によって解釈すべき内的な経験を、精神病というレッテル(labeling)により尊厳として権利としても非人間的な場所に追い込んでいる精神衛生法と“焼印”(stigma)としての精神医療の現実にもあてはまることである。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)

2012年11月04日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-85-

私達の時代の詩は、苦渋の色に濃く染めあげられている。だから、私達は私達の表現であるところの詩をカタルシスとか快適なものとして手にすることは出来ないでいる。

状況のなかで、ついに言葉を見失ってしまったもの、言葉を発することを<断念>したもののみが、再び詩を我物とすることができるのだと私は思う。詩を表現することによってはじめて生きのびることが可能となる自我の構造こそ、詩人の内的な現象のすべてであるのかも知れないのである。

社会経済的な諸制度が内的な抑圧に対してまぎれもなく巨大な影をおとしているという事実、そして人間の表現をめぐる開示性(=実存的自由)が、これら諸制度をまきこむ<運動>として認識されなければならないとき、表現者としての詩人の位置も定まるのである。イタリアの精神科医Franco Basagliaが述べるように、現代では内的な現象を理解しようとするとき「愛は不充分」(Love is not enough)であり、表現者は常に疎外と抑圧への鋭い認識を持ち続けなければならない。表現とは内的な現象としても“political act”として規定されなければならない。

 「暴力とは、抑圧され力を持ち得ないものに対してナイフを持つことができる特権そのもののことである。」
                                         (Franco Basaglia)
人間の内的世界が永遠に広がる創造力の源泉であるとき、個人の表現は、人間的な愛とやさしさに根拠づけられた、対暴力(Counter-violence)あるいは対組織(Counter-organization)の中心的課題とならなければならない。そして私達は表現によって世界の内に定位するのである。このとき、まさしくプロセス(過程)と考えられていたものがプラクシス(実践)として現前しはじめるのであり、受動的であったものが逆に行為者となるのである。

このようにして形成される詩人であることは、意識として反権威・反知識的存在であり続けること、あらゆる形の疎外と抑圧に鋭敏に反応する豊かな感受性を必要としているのだと思わずにはいられない。詩人であることとは、まさに内的な<運動>そのものである。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)

2012年10月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-84-

 ところで、内的経験のなかで、何故詩を書くか、何故表現をするのかという問題は果してどのように位置づけられるものなのだろうか。
 表現を成立させている契機には自我の抑圧の構造が密接に関係していることを認めない訳にはいかない。心的機能における抑圧の自我構造によって人間の表現の問題をある程度基礎づけようという作業は興味のあるものといえるだろう。内的な抑圧を如何に人間の生存の問題へと結びつけていくのかということを明らかにすることが私の課題であるとき、個々の詩人の内的抑圧の構造を知覚していくことは重要である。
 抑圧を、過去における既成の、権威づけられた人々のための心理学は、芸術的活動(表現)のなかで昇華(Sub-limation)され得るものとして規定した。しかし、私達の表現論は抑圧の自我機能をこの種の目標の変更(goalsubstitation)として解釈することはできないと考えている。人間的諸価値の多様性を基礎とした表現の多様性、解釈すること=されることの多様性は、抑圧の一元的理解からははるか遠いところに位置するものである。
 詩人の内的経験への関与の過程は、空想生活の願望形成に転移する神経症者類似の心的機能として考えるべき契機ではなく、従ってフロイトが了解したような芸術家の心的契機であるところの、「抑圧の柔軟性」(flexibility of repression)として認識し得るものであってはならないと私は考える。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)

2012年10月12日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-83-

Ⅱ表現論

表現論としてまとめたが、無論体系だった論考ではない。むしろ、私の内部で形をとりつつある来たるべき表現論のためのノートといったものである。
「流通機構論ノート」、「言葉・言葉・根拠」、「表現へ」のエッセイは雑誌『詩学』に「私的表現考」の一部として連載したものである。


私的詩人考

―――現代における表現の可能性

(ⅰ)内的な抑圧

 私にとって、基本的に興味ある事柄は、個人の表現行為をめぐる人間学的、現象学的な考察である。
 無論ここで人間学、現象学と述べるとき、その状況への関与あるいは状況からの逆関与の問題はどのようにしても避けて通れないものとして存在している。
 だから、方法的に次のように述べられた記述を思い出すことが必要である。
 (1)「在るとは、世界の内に=在ることだと、ハイデッガーは言っている。この《の内に=在る》ことを、運動の意味において理解したまえ。在ることは、世界のなかに炸裂することであり、世界と意識との虚無から出発して、突如として世界=の内に=意識として=己れを炸裂さすことである。」(サルトル「現象学の根本的理念」)
 (2)「行動は経験の函数である。そして経験も行動とともにつねに自分以外の他者ないしは他物との関係の中にある。」(R・D・レイン『経験の政治学』)
ここでレインの述べる経験(experience)とは、人間の内的な現象学的経験のことである。私達は現在における現象学の方法論から、状況的世界に関する、私達自身の開示性の認識を手にすることができる。
 だが、私達は単に開示性だけを呪文のように唱えている訳にはいかない。現在において私達の自我の構造が大きく変革されようとしているとき、人間という内的にははかり知れない多様性をもつ存在への尊厳を軸として、私達はいつかは飛躍をしなければならないのである。それは、かって私が述べたように私的表現考参照)「事象そのものへ!」というテーゼを、より拡大した形で、「混沌そのものへ!」というテーゼにと内的経験を下降するものである。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)

2012年08月10日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-82-

 先に私は、朔太郎の表現行為をたどっていくとジョージ・バークリーのことが想起されると述べた。これはかなり唐突な比較のようにも思えるが、私には象徴的なことなのである。物質的対象は、知覚されることによって存在するにすぎない、従って物質の存在などあり得ないのだという華麗な論法は、自己の観念のうちに厳然たる<近代>の夢を構築しようとした朔太郎の表現行為の行方をみごとに暗示しているように思われるのである。

[参考文献]
 朔太郎の作品は、新潮社版「萩原朔太郎全集」(1960)による。
<Ⅰ>
『萩原朔太郎』近代文学鑑賞講座 第十五巻 角川書店(1960)
「『月に吠える』の病理」松井好夫・上毛出版社出版局
“The Death of the Family”David Cooper(1971)
“OEdipe:mythe ou verite”Andre Green,in L’ARC
<Ⅱ>
萩原朔太郎研究 伊藤信吉編 思潮社 1966
萩原朔太郎研究 那珂太郎編 青土社 1974
『父・萩原朔太郎』萩原葉子 筑摩書房 1959
精神分裂に病むことを、現存在分析的現象学にこらしてみて、M・ボス 1974
Schizophrenia as Ideology Thowas J.Scheff 1970
The Medical Model and Mevtal Hospitalization Ewing Goffman 1971
Hection/Reflection Mary Bames 1972
Psycho analysis and Imperi alism Herman Kesselman 1972

(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界【終】)

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