成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。
2012年04月19日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-76-
『氷島』における朔太郎の創造力の涸渇と、それを表現上でおぎなおうとする方法的な文語体の使用の問題は、この間の事情をよく説明しているように思われる。そして、表現としての詩の主題さえもが、朔太郎自身がその内的な機略として生み落したはずの感傷的な日常生活に依存することになる。これもまた凄惨な悪循環である。
しかし、このようなスティグマの構造のなかでより重要なことは、朔太郎自身も、その時代の同時代人達も、誰一人客観的にこのような構造を認識していないということであった。
朔太郎にしても、くり返し『氷島』の必然性をくどくどと述べている訳だし、いかにも周到にそれを論理づけようと努力していたのだ。また、同時代人にとっても『氷島』はむしろ讃美され、評価されていたのである。スティグマの構造が、このように表現論の内に露呈するとき、一体誰が被害者で誰が加害者であるのかという問題は影をひそめるのであるけれども、しかし、これは表現の創造性、開示性の問題として、やはりこの種の表現にかかわった全体の不幸だと考えなければならないはずである。
こうした視点は、朔太郎が無意識的に口にした表現の「憂悶」ともいうべき現象である。
朔太郎という詩人は、彼の母親ケイから継承した心理的な同一化と共生状態、そしてそれを自我の自律のうちに自ら喪失せざるを得ないことによって深い憂ウツを手にした人である。朔太郎の憂ウツは、それだから自分自身の強烈な自己愛と表裏をなす一体のものと言うことができる。
そして、このような機制から、おそいかかってくる憂ウツに押しつぶされないためにも、朔太郎は自分自身をさらに一層<詩人>へと概念化している。朔太郎にとって、まさにこの<>の内に定位されるべき<詩人>こそが、すべての根拠をささえた基盤であるかのように思えたはずである。朔太郎は詩人であるよりも、<詩人>という同一化に生存の意味を見出そうとした人間であったと言ってよいだろう。
まさしく、このときから朔太郎は自分自身に対して<詩人>というレッテルをはりつけてしまったのである。そして、同時にこのレッテルは人間の対他的・対自的な関係性のなかで朔太郎の手からはなれて独り歩きをはじめたのではなかったか。
私は、この現象を、前述のようにスティグマの構造と呼んだのだ。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)
2012年03月30日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-75-
私には、朔太郎の孤独な笑い顔が想い浮べることができる。
「『新宿の交番の前を通った時に、またあやしまれて不審尋問された』……(中略)『職業は何だと聞くから、著述業だといったが、いくら説明してもわからない。それに“朔”という字がわからなくて困った。』……(中略)……『詩人といっても分らないので、最後に思いついて明大講師をしているといったら、急に“大学の先生ですか!それは失礼しました”とあやまって、すぐ放免してくれた。』……(中略)……『交番というところは、どうしてあんなにものわかりが悪い所かな、詩人にはまるで信用がない』」(萩原葉子「折にふれての思い出」)
このような状況的スティグマの構造のなかで、朔太郎の詩的作業は『郷土望景詩』を経て、詩集『氷島』へとなだれこんでいく。
そして、『氷島』当時のよく知られた実生活上の破綻――妻との離婚、荒廃した生活、乃木坂倶楽部での独居、等々――それさえも、むしろ朔太郎が演じようとした最后の舞台の狂言まわしでしかなかったのである。だから、そのような実生活上の破綻が『氷島』の詩を導き出したというのは完全な誤りであるだろうと思う。『氷島』はあくまでも、必然的に成立するはずの詩集であり、朔太郎の実生活はスティグマの構造における、単なる合理化、あるいは緻密に準備された内的な策略にすぎなかったのである。
人は、スティグマの構造のなかにその自我のあり様をとりこまれるとき、同時にすべての社会的規範が変質するように、その生存の基盤を失ってしまうのである。
この現象は、自己と他者との間の交互作用的な剥奪であり、恒久的な役割存在の変質であり、内的には、創造力の衰退であり、開示性の喪失である。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)
2012年03月14日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-74-
前章で述べた『青猫』周辺の、朔太郎の内的世界の素描を、朔太郎における<近代>の崩壊という、より外的な視点からとらえかえしてみても、私達はそこに決定的に割り切れない議論の破綻を見出してしまうのである。
朔太郎がいかに執拗に自然主義的思想を嫌悪し、さらにまた、プロレタリア文学を批判したとしても、朔太郎の批判の根拠は初めからこれらの潮流が激しく所持していただろう状況的色彩を欠落させていたことも事実である。このような朔太郎の宿命は、くり返し述べるように、自己をあまりにはやく<詩人>という呪縛のレッテルにくくりつけてしまった人間にとっては、ある意味で不可避な結末であると言ってよい。
だから、朔太郎の厳密にいえばたったひとつしかない方法論の燃焼を『青猫』のなかで果してしまった以上、それ以后の朔太郎の表現行為は自他ともに根拠を失ったものとならざるを得なかった。
こうしたなかで、朔太郎は、自らにくくりつけた呪縛のレッテルにますます依存しなければならなくなる。これは悪循環である。このようにして、朔太郎は単に表現行為だけでなく実生活においてもその呪縛に絡みつかなければ自己の生存の基盤さえ確保できないような場所へと追いつめられていったであろう。既にその頃、朔太郎は自分の夢みた<詩人>として、充分に名声を手にしていた。呪縛はもう、朔太郎自身のものとしてだけあるのではない。名声と評価の目に見えない要請としても存在していたのである。
このとき、朔太郎のレッテルは、レッテルである以上に状況的なスティグマへと変質していったはずである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)
2012年02月19日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-73-
ところで、かつて広末保は、<近代>を超えることに関わって次のように述べた。
「こうした心情的主義的な出会い、あるいは回帰は、挫折した人間が、所をかえてすみやかな自己完結をとげようとするときに、しばしばみられるものであるが、それは、一方で、近代的な方法や近代的な諸概念によっては解くことのできない『日本的な』あるものを、心情的・情緒的にとらえてすませるという態度とも、うまく重なることができる。その結果、前近代の遺産を『日本的なるもの』として再評価するにしても、たとえば、大衆の発想、近代主義でも情緒主義でもとらえきれないような発想にまでわけいり、そこからあらためて『日本的なるもの』を模索し、その模索を通して、近代のなかで近代を超える可能性にいどむというふうにはならない。心情主義的に自己完結しうる『日本的なるもの』が、日本の近代を、あるいは近代主義的な普遍主義を超えるべきどのような可能性をもちうるであろうか。」
まさに、そのとおりなのだが、朔太郎にとっての<近代>も、日本への回帰も、日本浪漫派のそれとは、まったく同一には語られ得ないことも事実なのである。
それは、「日本的なもの」を、大衆的・階級的にとらえるか、貴族的なセンスでとらえるかといった措定ともまた異なった認識のうえに成立するものである。
詩人をめぐる、内的世界と外在的状況との関わりは、無論とりわけ社会的な現象である。それ故に、つねに、ある詩人がその自身の内的な同一性としてしか振舞い、表現することができないのは、出会う存在するもののいずれの領域からの、どのような要求のもとでなのかと、問うことが可能となるのである。と、同時にここから、詩人をその要求の状況から、その要求とそれに対応する内的な同一性との問題を、純粋に内的世界の問題としてとり出していこうとする論拠がうまれるのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)
2012年02月07日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-72-
物質的対象は、知覚されることによって存在するにすぎないとバークリーは主張した。「そうだとすれば、たとえば一本の樹は、誰もそれをながめていない場合には存在しなくなるではないか、という反論に対して、彼は次のように返答した。すなわち、神は常にあらゆるものを知覚している。もし神が存在しないとすれば、われわれが物質的対象だと考えるものは、われわれがそれをながめる時にわかに存在しはじめる。といったような気まぐれな生活をするであろう。しかし、実際には、神の知覚というもののおかげで、樹や岩や石といったものは常識が想定しているとおり、間断なく存在しつづけるのである、と。」(ラッセル『西洋哲学史』)
私がここに想定するのは、朔太郎の<近代>をめぐる比喩である。そして、それはただ単なる比喩だけではなく、朔太郎のスタイルの問題なのである。
そして、こうした生活上のスタイルの背後に、一体朔太郎の内的世界に何があったのかというところまで私達はいずれ、歩を進めなければならないのである。
私達は、朔太郎の詩の完成の問題として<近代>の崩壊を議論しているのではない。現代詩であろうが近代詩であろうが、その方法上の完成の問題など、私達にはそれほど重要なものではない。それよりも、その方法を生み出した、個人の内的世界のあり様と、その根拠を求め続けていきたいのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)